明石小学校への想い...
- 2022/6/2
- 街の人のブログ
1908(明治41)年、中央区明石町に木造二階建てで開校した明石小学校。
この写真は50年ほど前の姿です。
江戸時代、学校のある辺りは広大な広さ(8794坪)の播州赤穂藩の上屋敷でした。
1701年に播州浅野家四代目当主、内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、3日後には幕府によって取上げられます。
翌年、仇討ち本懐を遂げた赤穂浪士達が主君の眠る泉岳寺に向かう際、屋敷跡を通ったようです。
その後、中津藩奥平家の中屋敷となり、中津藩の藩医であった前野良沢のもとに杉田玄白や築地に住んでいた桂川甫周らが集まり、オランダの解剖学書ターヘル・アナトミアを翻訳した場所になります。
翻訳の苦労を正しく後世に残す為、玄白が解体新書を残します。
幕末には中津藩士、福沢諭吉が蘭学塾の教師に赴任して、この地が慶應義塾の起源になります。
1869(明治2)年、明治政府によって、明石町は外国人居留地に指定されます。
横浜や神戸のような商業都市への発展の仕方とは違い、宣教師や教師、医師が多く住み、洋館が立ち並び学校が沢山できます。
居留地の端に原っぱがあり、渋沢栄一らが箱根仙石原で始めた牧場の支店がそこで営業を始めます。居留地で3軒しかない日本人の家の一軒が牛乳を売る店で、そこで産れた男の子が芥川龍之介です。
何とも歴史に関係する場所ですねぇ。

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