乃木希典(大将)は銀座に住んでいた...
- 2022/10/13
- 街の人のブログ
嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(150石[7])の三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれ源三と命名されました。軍人として高名になった後には、「乃木大将」または「乃木将軍」と呼称されます。明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された乃木源三は、名を希典と改めます。明治7年(1874年)9月10日には陸軍卿伝令使となりましたが、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であり、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだったということです。
この時期に三十間堀の川船宿「大村屋」に足しげく通っていたのかもしれません。自宅から徒歩で5~6分の距離ですから。
明治29年10月14日、乃木は台湾総督に任じられ、台湾に赴任。日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職しました。乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略でした。乃木はこの戦いで、ロシアの永久要塞を攻略しました。
第1回目の攻撃こそ大本営からの「早期攻略」という要請に半ば押される形で強襲作戦となりました。乃木の人格は、旅順を攻略する原動力となりました。明治38年(1905年)1月1日、要塞正面が突破され、予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になった旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセル(ステッセリとも表記される)は、乃木に対し降伏書を送付し、これを受けて1月2日、戦闘が停止され、旅順要塞は陥落しました。
ステッセルとの秘話として、「ヴェーラ夫人が旅順の要塞で弾いたとされるピアノが、石川県の金沢学院大学に保存されています。旅順陥落に際してステッセルから乃木に贈呈したもので、旅順で最大の戦死者を出した金沢第九師団に譲られたと伝わっています。」
上の集合写真の中央が旅順要塞司令官のアナトーリイ・ステッセルです。

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