入船・湊 一考察...
- 2022/12/31
- 街の人のブログ
1603年迄、中央区のほとんどは海でした。埋め立てられ、水路が沢山造られ街が形成されます。水運は街を形成するために重要な交通手段、運搬手段として大事なものでした。
この写真は現在の中央区新川の遊歩道入口近くにある江戸湊があったとする錨のオブジェです。亀島川の出口にあたる位置です。江戸時代このあたりから芝浦あたりまでは鉄砲洲と呼ばれています。海側へ海側へと遷座されてきた鉄砲洲稲荷神社は江戸への物資のほとんどが入ってくる江戸湊の守り神として船乗り人の崇拝を集めます。歌川広重の”絵本江戸土産”や天保年間の”江戸名所図会”には湊稲荷の名称で載っています。現在の神戸や横浜などの大きな港という意味よりも沢山の舟が行き来し人も集まる場所つまり湊の名が使われます。

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