『中央区』は”江戸区”になっていたかもしれない!...
- 2023/5/6
- 街の人のブログ
江戸時代の岡っ引き「銭形平次」をテーマとした時代劇の主題歌の歌詞を見てみましょう。
『誰がよんだか銭形平次 花のお江戸は八百八町 今日も決めての今日も決めての銭がとぶ・・・・』
これ以外にも八百八町をテーマとした歌は幾つもありますが、八百八町だった時期はいつ頃のことでしょうか?本当に町の数800に意味があるのでしょうか?『武江年表』によると、「万治元年(1657年)八月、江戸中髪結株、一町に一ケ所ずつ、八百八株に定る。按ずるに、江戸町数 八百八ということ、この時代のことなり」とあります。
幕府は髪結い株、髪結い床の乱立を防ぐため、江戸中の髪結い床の数を定めました。各町に1床として江戸町数八百八町に床数八百八株を設定しました。
江戸八百八町はどこまで広がっていたのでしょうか?江戸は四里四方と言います。五街道を歩くと第一の駅はすべて二里(約8km)の所にあるとされています。東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、中仙道の板橋、奥州・日光街道の千住と、全て二里以内です。
明治11年になっても、日本橋・京橋両区の地域を江戸と考えていた意見があって、両区の名前を第一案では北江戸区・南江戸区としようとしていたようです。我々は「中央区」しかなじんでいませんが、北江戸区とか南江戸区が当時採用されていれば、現在の中央区は『江戸区』になっていたのではないでしょうか?。
北江戸と南江戸の地域、北は神田堀(竜閑川)を限りとし、南は新橋川(汐留川)を境ととしていました。というのが江戸の江戸であるという考え方が普及していたのでしょう。

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