野球よもやま話のこぼれ話②...
- 2023/8/8
- 街の人のブログ
東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑です。プロ野球の礎を築き戦争に散華した選手たちの魂を慰めるために建立されました。建立に尽力したのは鈴木龍二です。全くの野球素人でしたが急遽国民新聞の社主から命じられ、洲崎球場を造った大東京軍のオーナーになります。日本野球連盟の戦前最後の理事長になり、選手たちを戦場へ見送り、戦死の悲報を受け止めました。当初は後楽園球場脇にありました。東京ドーム完成で現在地に移行されました。野球殿堂博物館内には、同じく戦争で亡くなった中等学校、大学野球、社会人野球の選手たちを慰霊する戦没野球人モニュメントがあります。
鎮魂の碑には沢村栄治、景浦将らとともに吉原正喜の名が有ります。千葉茂と同じ年に巨人軍に入団した花の13年組の一人と”中央区野球よもやま話”にも書きました。吉原は川上哲治とバッテリーを組み夏の甲子園で母校熊本工業を2度の準優勝に導いた闘志の捕手です。巨人軍はどうしても吉原を入団させたく、鈴木惣太郎をスカウトに行かせます。惣太郎は投手の川上の打撃練習を目撃します。いいフォームだと思い、ついでに川上にも声をかけました。打撃の神様と呼ばれた川上は抱き合わせの入団でした。吉原は捕手ですが足の速さにも自信があり、グランドでの紹介挨拶時に自慢したら、監督に巨人軍の俊足の先輩3人と競争させられ敗れます。吉原はもう一度と頼み込み今度は3着になりますがまたお願いしますと頼み最後は一着同時で駆け込んだそうです。ある試合ではファールフライを追ってコンクリートむき出しのダグアウトに激突しながら補給します。ケロッとして守備位置に戻りましたがコンクリートは血まみれだったそうです。どちらも ”巨人の星 吉原正喜物語” にも出てくる有名なエピソードです。18才でいきなり沢村やスタルヒンの剛速球を受け続けた吉原は実働4年間ですがジャイアンツ史上最高の捕手と言われます。吉原の背番号は27。後に森昌彦や大矢明彦、谷繫元信、伊東勤、古田敦也など名捕手の背番号として引き継がれました。
花の13組の一人で背番号26の内野手がいました。活躍出来ずに2年で退団した内海五十雄です。巨人軍で最初の26番でした。65年後に26番を背負うのは内海哲也投手、彼の孫でした。

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