向井将監忠勝と三浦按針との海の男のロマンをかけた夢に驚嘆!...
- 2021/8/31
- 街の人のブログ
中央区日本橋室町 按針通りにある三浦按針屋敷跡の碑
向井将監忠勝と三浦按針の2人は主君徳川家康に特別の信頼関係と共通の絆があったと思われます。
1582天正10年竹田氏滅亡後、浪人となった忠勝の父正綱に口を付け、200俵で家臣にしたのは徳川家康です。浮島の合戦で、武田勝頼の船を捨てて陸へ上がれの命令に、戦船してこそ水軍であると信念を強くもって戦った功績を認められたからです。
1597慶長2年2代将軍秀忠に召され、1601慶長6年父正綱の跡を継いで忠勝21歳は初代将軍家康を送迎する御船手奉行として清水港江尻渋川口の船蔵で『国一丸』御召船を預かりました。
向井将監忠勝屋敷は江戸港の日本橋川筋の中心にあり、三浦按針屋敷は斜め向かいでしたが、1604慶長9年にはすでに三浦按針は長崎平戸へ移住して『あんじん丁」と『豊島郡江戸庄図』に記載されています。
徳川家康は浦賀港を国際貿易港としての活用するため、三浦按針と忠勝にスペイン貿易統括を命じ浦賀港を出入りするスペイン商船の渡海朱印帳を忠勝は仲介していました。
忠勝は船奉行として大型帆造船・航海技術・水先案内・海外貿易等を外交顧問の三浦按針から学ぶことが多かったと思われます。この2人の海の男の出会いにロマンを強く感じ、江戸幕府初期の歴史に大きく関与していたことに驚きを覚えました!

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